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「さっさとそこどけ、カスが」 それがこの学校に入学してから教師に言われた初めての言葉だった。 サー・クロコダイル。我が校の政治・経済担当教諭。それはあくまでも後から知った事実で その瞬間、私はあまりの衝撃に廊下に立ち尽くしたままだった。スッと横に移動した私と擦れ違う瞬間 ギロリと音がしそうなほどに鋭い瞳を私に向け、彼は「フン」と小さく鼻を鳴らし去っていった。 こつこつと廊下に響き渡っていた革靴の音が強く頭に残った。 「…意味が分からない!」 やっとのことで吐き出した言葉は虚しく空中に飽和して消えた。 何も考えられないまま教室への道を辿る。え?なんで?避ければいいじゃんか そんなに廊下狭くないよね?無駄にふわもこしてる毛皮のコート羽織ってたけど スーツ着てたし一応先生なんだよねあのひと…? 「カス言われたよカスって!!」 「あーあー分かったから落ち着けよ、お前」 「だってカスって…っあー!腹立つわー!」 入学早々の受難に私は思わず隣の席のエースくんに愚痴を零してしまった。 むしろ八つ当たりという方が正しいかもしれない。それでも優しいエースくんは 「そりゃあ大変だったな、そんな奴はさっさと忘れるに限る!」と明るい笑顔で 励ましてくれた。本当にいい人だなぁ、この人は…。 彼は入学式当日だというのに朝のHRで早々に居眠りを決め込んでいた。盛大な鼾をかいて。 担任はすごく迷惑そうな顔をして且つ自分はなるだけ関わり合いになりたくないような つまりとても面倒臭そうな表情で私を見つめてきた。起こせと仰るのですか。 仕方が無いので小さく声を掛ける。起きない。もう少し声量を上げてみる。起きない。 思わず溜め息を吐きそうになった。背を向けているもののクラス一同の視線が背中に突き刺さるのが 感じられて少し悲しくなった。ゆさゆさと肩を掴み揺すると「んあぁぁー…?」と とろんとした目をして、目覚めた。ヤバイ怖い。 ヒィッ、と情け無い悲鳴をあげ私はフリーズした、が。 「あぁー悪いね、ありがとな」とふにゃりと人好きのするあったかい笑顔を私に向けた。 その瞬間、あぁこの人は良いひとだ。と思った。 HRはその後無事に終わり、私とエースくんはちゃんとした会話を交わした。 そうして仲良くなって、現在に至る。 出来ることならもうあの人には出会いたくないなぁ、きっと無理だろうけど 極力関わり合いたくないなぁと思った。 でも、世の中は皮肉なものだ。実によく出来ていると思う。 通常の授業が開始されるようになってから数日が経ったある日のこと あの男と私は再会することになったのである。これから毎週必ず顔を合わせることになろうとは。 「テストの返却だ、名前呼ばれたら前出ろ」 紫煙を燻らせながら教壇に立つなど一体どういう御了見なのだろうか、この男は。 出席番号順に呼び出される生徒たちは揃いも揃って皆少し青ざめたような顔をして 席を立ち歩を進めだす。サーが、そしてテストの結果が怖いのだ。 サー・クロコダイルのテストは毎度の如く難しい。赤点続出の鬼門だ。 今回も例に漏れず、帰還した者たちは返却された一枚の紙を見て「ヒィッ」とか「うわっ」とか 様々な悲鳴を響かせる。他の先生のテスト返却なら、もっと賑やかで朗らかな雰囲気だというのに サーの場合はまるでナイフを喉元に突き立てられているような戦々恐々とした空気が教室を支配するのだ。 「…、」 「…はい」 教壇の前に立ち、しっかりと彼の顔を見詰める。あぁ今日も不機嫌そうな顔をしてらっしゃる。 私と目が合うと彼の眉間の皺は一層深くなった。空気がより重くなるのを感じる。 その瞬間、私は密かに勝利を確信するのだ。口元が緩みそうになるのを必死に堪える。 これが私なりの嫌がらせというか、復讐なのである。 きっと彼はあの時のやり取りなど覚えていないだろうけど私は忘れない。 「…次は簡単には取らせねェぞ…」 「はい、頑張ります」 「…フン」 テストの返却期間が終わり、職員室への出入りの規制も解除される。 私は国語課題を提出するべくクラス一同のノートを抱え職員室に入った。 生憎先生は不在で、簡単なメモ書きを添えて教卓の上に放置して帰ることにした。 踵を返しドアへ向かう途中、聞き覚えの無い女の人声が私の名前を呼んだ。 「え?」 「ふふ、聞いてるわよ。貴女とても優秀なんですってね」 「あ、あの…」 「サーのテスト、すごく難しいって評判なのに」 「ありがとうございます…」 初めて見る先生だった。彼女はすらりと長い足を組み、華奢で美しい手で頬杖を突きながら 優雅に微笑んだ。その拍子に艶のある黒髪がさらりと揺れる。こんな綺麗な先生がいたなんて。 私がぽかんと見惚れていると彼女は笑みを深くした。 …それにしても同僚からも難しいと思われるテストを作るとは。 「ニコ・ロビンよ。三年の世界史を担当してるの。よろしくね」 「は、はい。よろしくお願いします…!」 「貴女のお陰でテスト期間中のサーを観察するのが楽しくてしょうがないわ」 「え?」 「あの人が貴女のテストを丸付けしてるときの顔、本当に面白いのよ」 「…見てみたいですね、是非」 「うふふ…!」 「テメェら、何の話してやがる…?」 まったくこの人は空気を重くさせる能力でも持っているというのだろうか。 和やかなムードは一瞬にして破壊された。それでもロビン先生はあら、と一言洩らすだけで 眉ひとつ動かさない。この人、強者だ。 サーは青筋を立てながら私を一瞥し、深い溜め息を吐いた。 「…お前がこんなに気の強い女だったとはな」 初めて会った時には思わなかった、と小さく溢したものだから 私は呆気にとられてしまって何も言えず、ただぽかんと間抜けに口を開けたまま あの日のように立ち尽くすしかできなかった。 あぁ、覚えていたのか。 |