暗く冷たい監獄からの脱走を経て、真っ先に向かったのは彼の主であるキング・ハデスの元だった。
道中で合流した同僚にはネチネチとした罵詈雑言を浴びせられ、主にも、やはり叱責を受けた。
また警察に捕まるなどという真似をしたらどうなるか覚悟をしておけ、と。
それでも彼は、今回はまだ運が良かったと内心胸を撫で下ろしていた。それ以上の処分も予想していた為だ。
そしてその足で更に急いで向かった場所が、もう一つあった。

様、いらっしゃいますか?」
ケルベロスが訪ねたのは、もう一人の主である天草のもとだった。
幼い頃から世話を任されていた彼女と、こんなに長い間顔を合わせなかったのは初めてかもしれない。
彼は怒られこそすれ、ハデスよりも恐ろしい事はないだろうと考えていたが気の強いの事である。
結構な剣幕で怒鳴られるであろうと覚悟していた。
もしかしたら「あ、おかえり」などとあっさりとかわされてしまうかもしれない。彼女ならば有り得そうなものである。

しかしながら彼の予想に反して、の部屋の扉を開けると当の本人はいなかった。返事もない。
いつもならこの時間は彼女のお気に入りであるアンティークの机で勉強しているはずであった。
部屋の中を見渡してみても、少女の姿は見えない。広いベッドの上にも、そびえ立つ大きな本棚の前にも。

様…っ!?」

突然背中にぶつかってきた何か。いや、ぶつかってきたのではない。
ケルベロスの体を、しっかりと抱きしめている細い腕。暖かな体温。
気配を感じさせないところは、流石というべきか。

さ…」
「後ろ向いちゃだめ」

向きたくても向けないのですが、という言葉がすぐそこまで来ていたが彼女の有無を言わせぬ強い口調と威圧感に押されてしまった。
仮に口に出していたとしたら、確実に彼女の機嫌は最悪になるだろう。

「…声が震えていますよ」
「うるさい」

素直に口から出た言葉によって結局、墓穴を掘ってしまいましたねぇ、と却って冷静になっている自分に驚く。

「お前、私がどれだけ心配したか分かってるの?」
「……」
「まったく何をしているんだか。あれだけ調子に乗るなと警告したはずよ…自業自得だわ」

”警告”とは、あのDDSに送りつけた手紙の事である。

「申し訳ありませんでした」
「謝罪はいいから黙ってお聞きなさい」

(年齢不相応なこの喋り方は、きっとあの女のせいですね…)

「ケルベロスがいない間、本当に大変だったのよ。みんなの仕事は増えるし、運転手はいないし…」
「……」
「特にユリエなんか本当に忙しそうで…なんか機嫌良かったけど」
「……」
「ああもう!!言いたいことがありすぎて何から言えばいいのか分からなくなっちゃったじゃない!!」

後ろから抱きつく少女の腕の力が一層強くなった。
そして伝わってくる、微かな震え。徐々に聞こえてくる嗚咽。

「寂しい思いをさせてしまいましたか?」
「う、自惚れるんじゃない!!」
「…もう少し素直になったら如何ですか」

巻き付いている華奢な腕を、ぽんと軽く叩くと腕の主は案外するりと力を抜き、彼を解放した。
振り向くと、少女は本当に泣いていた。
大きな瞳は赤くなっていて、長い睫毛には大粒の涙が溜まっている。
重力に逆らえなかったそれらは美しい白磁を滑り落ちる。
この方はまだこんなにも幼かったのだとケルベロスは気付かされた。

「本当に申し訳ありませんでした…許して下さいますか?」

主を見上げるように跪くと、は不機嫌そうにふて腐れて、彼の瞳を見ようとしない。
このままでは埒があかないと、ケルベロスは少女の体を抱きしめた。
子供をあやすように頭を撫でてやる。涙は今も止まらないらしい。

「まだ…許してやらないから」
「はい…気長に待ちます」
「…ケルベロスのばかぁ…おかえり…!!」
「えぇ…ただいま帰りました」


08.3/9 ちゃんがものすごくツンデレっぽくなってきてる気がする