口笛が聞こえた。久しい間耳にすることは無かった不安定な高音。後ろを振り向けば黒いスーツに身を包んだ死神が立っていた。

「お久し振りですね、さん」
「…なんだ、アンタ捕まったんじゃなかったの」
「貴女こそ、上手く逃げ仰せているみたいで何よりです、ふふ」

相変わらずの慇懃無礼な態度に思わず眉を顰める。
日の当たらない、薄暗い路地裏。確か前にもコイツとこんな風景を見た気がする。
組織が崩壊してからも無意識に人目に付かない裏通りを歩く癖はなかなか抜けてはくれなかった。
そのお陰でかつての同僚に出会うなんて思いもしなかったが。

「なに?なんか用でも、」
「冥王星、復活させる気はありませんか?」
「…え?」


ふたりで、もう一度冥王星を作り直してみませんか?


「…笑わせないでよ」

アンタと2人でなんて、やってらんないわ。
そう告げて、また前を向いて歩き出す。

(もう何よコレ、デジャヴュってやつ?)

酷くイライラする。早くこの男から離れたい。
そう思って私は歩調を早める。
コツコツと響くヒールの音は私の鼓動によく似ていた。

「…さん」「っ、なんなのよ」

勢いよく振り返ると、思った以上に近くにケルベロスの顔があった。
何時の間に、そう思った直後に私の意識は途切れた。焼き付いたのは、あの妖しく光る目だった。


「お目覚めですか?…ふふ」


目が覚めると、そこは見覚えのない廃墟だった。事務所、だったのだろうか。
ぽつりぽつりと薄汚れたデスクや椅子が点在している。
私はそのうちの一つである机の上に寝かされていた。
ケルベロスが私を見下ろしている。実験台の上に乗るモルモットにでもなった気がする。
上体を起こす。視線が絡まり合った。

「何する気なの…」
「ふふ、分かっている癖に」

無粋な事を聞きますね。
徐々に距離が詰められていく。逃げ出してしまいたいのに足が動かない。
出来てもせいぜい後退りだけ。弱い自分が憎らしくなった。

「…っ!」
「ふふ、危ないですねぇ…」

咄嗟に打った張り手を逆手に手首を掴まれて、怯んだ隙に押し倒されてしまう。相変わらず彼は笑っていた。
警鐘が鳴り響いて止まない、否それは役目なんか果たしていなかった。
時はもう、既に遅かったのだから。

「んぁ…っ、…は、ぁ」
「…腕、回してくれないんですね」

気付けば、いつの間にか体位が変わっていた。
机に腰掛けたケルベロスの膝の上に、私。
腰を掴まれて揺り動かされる。
誠に忌々しいが快楽で頭がくらくらした。もう抵抗なんか出来ない程に。

「っ、誰が、そんな事するか…!」

もう私にできることは力の限りコイツを睨み付けることだけだった。
飲み込まれてしまうのが怖くて怖くて、なけなしの理性に縋る。
そうやって必死になっている私が可笑しかったんだろうか。
彼は小さな声で、また笑う。
でも、いつもとは違う気がした。何か面白い事を思いついたような目をしていたから。

とん、と肩を押されて、私の背中は何もない空中へと投げ出される。

「きゃ…!」「…ふふっ」

気付けば私の腕はしっかりとケルベロスの首に回されていた。

(しくじった…!!)

反射的に目の前にいる彼にしがみついてしまったのだ。
すぐにでも振り解いてやろうかと思ったが、私を抱きしめるケルベロスの腕に力が籠もる。
彼の着ている黒いシャツを通して体温が伝わってきた。
心地よい暖かさにまるで恋人であるかのような錯覚に陥って泣きたくなった。

「…っ、ん、!」
「さっきの話、半分…本気なんですよ」

口実ではないと言ったら嘘になりますがね、と耳元で囁く。

私はもう、逃げられないのかもしれない。