彼女が水族館に行きたいと言い出したのは、ついさっきのことだった。
突飛な提案に驚きはしたが普段のコイツは俺の事ばっかり気にして自分のやりたいことは全部後回しにする子だから
たまにはそんな可愛い我儘を聞いてやりたくて、俺は今、水族館の入り口に立っている。
一歩外に出れば、熱に浮かされた陽炎の街。ここはまるで別世界みたいだ。

(…せっかくのデートなんだから服とか靴とか買ってあげたかったんだけどなー)

そんな彼氏視点の正直な気持ちはぐっと飲み込んで、隣にいるちゃんを見ると
当の本人は全く気にする様子は無くて、むしろ気付いているような様子も無く
入場口の向こうに見える大きな水槽を見て目を輝かせていた。
あー…お前ほんと可愛いよね…。

「見て!」

ちゃんは壁に埋め込まれた丸い窓のような水槽の中を泳ぐ鮮やかなオレンジ色の小魚に夢中らしい。
カクレクマノミ?だっけ。なんか見たことのある魚だ。
悪いもんなんか何も入っていないような、只ひたすらに透明な水の中を悠々と漂っている。
ちらり、と彼女を横目で見ると一瞬だけ長い睫毛を伏せて憂いを帯びた表情を作った。気のせいかもしれない。

「…ちゃん?」「さっ、次、行こう!」

繋がれた手が忙しく方向を変えていく。暖かな体温が心地の良い。
さっきの顔が嘘みたいに、薄暗いフロアを照らす間接照明の光を受けて大きな瞳が輝いていた。

「そんな急ぐと転ぶぜ?」
「じゃあ転ぶときは門次も一緒だ」

にやり、と笑って俺を見つめて、手に僅かに力を込める。
そうやって笑った口元に見える白い八重歯が好きなんだよねぇー…もしかして分かってやってるの?
一瞬ドキッとした俺に気付いているのかいないのか、本心の全く見えない
それこそ、この目の前に広がる大パノラマの水槽を泳ぐ美しい色の魚たちのような彼女は

「…食べちゃダメだよ、門次」
「にゃ…ひど…!!」

完全に彼氏を猫扱いしています。
(そんな事ばっか言ってるけど実際爪立ててるのはお前でしょ?)(付けられた爪痕、まだ残ってるんだけど)
なんて言ったらきっとへそを曲げてしまうから止めておこうと思う。

そんな事を考えていたらちゃんは俺の手を離れて、ふわりふわりとした軽い足取りで色とりどりの美しい魚たちと共に広いフロアを彷徨い出す。
天井から降り注ぐ光が水を通り抜けてきらきらしていた。
なんだかそんな彼女を見ていたら心が薄ら寒くなって苦しい。

(そんな遠くに行くなよ)

「…門次?大丈夫?」
「え、あ、あぁ。大丈夫」
「ほんと?」

ぱたぱたと小さな足音と共にちゃんが近づいてきた。

悲しそうな顔、してたよ。
きっとちゃんは気付いていないんだ。あの小さな橙色を見つめていた自分自身に。

「…ちゃんも悲しそうだったよ、さっき」
「え?」

少しの沈黙を挟んで、彼女はゆっくりと赤い唇を開いた。

「この魚たちはさ、自由そうに見えるけどやっぱり閉じこめられてるんだよね」
「…そうだね」
「魚にも思想って、あるのかな。帰りたいとか、思うのかな」

敵だっていないし、餌だって定期的に与えられて、きっと快適。でも窮屈でしょ。
そう言ってもう一度、広く青い箱庭を見上げた。

「こうやって私達は楽しんでいるけど、ちょっと歪んでるわよね」
「そう?」
「うん。自分の好きなように閉じこめて、満足してるんだよ」
…まぁ魚は放っておくと逃げちゃうから仕方ないと思うんだけどねー」
「…俺も思うときあるよ、ちゃんの事閉じこめておきたいって」

いつも俺の手の届くところに置いて、どこにもいかないようにしたいって。
…はは、やっぱりちょっと可笑しいかな。こんなこと考えてるなんて。
そう言うと彼女はわたわたと慌てながら早口で言った。

「…わ、私は魚じゃないよ!」「そう言う意味じゃないって!」

違う違う!そう言って綺麗な手をひらひらと振る。

「私は自分を大切に思ってくれてる人だって判るし、私も門次が好きだから、逃げたりなんかしないよ」

真っ直ぐに俺を見てちゃんはしっかりとした口調で言い放った。
…なんでお前はそう照れ臭い事を真顔で言うかなぁ。
言った本人は、言いたいことを言い切ったという満足感でさっぱりした顔をしている。
そして言われた俺は逆に赤くなってんだろうなぁ、顔…。

(照明が暗くて良かった)

一瞬気弱になってしまった自分を振りきって、もう一度彼女の手を取る。
俺は人魚姫を捕まえた。


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